有田焼 伊万里焼
有田焼とは、佐賀県有田町で生産されている陶磁器の
総称になります。つややかな白磁、繊細さの中にも
豪快で華やかさのある絵付けが特徴的です。
透き通るようなガラスの滑らかさや硬質さがあり、
耐久性があり吸収性がないので、食器にとても適しています。
ほとんどのものは、磁器のもので陶器のものは大変少ないです。
その昔、有田で作られた磁器製品の多くは伊万里港から
輸出されていたため、有田焼は「伊万里焼」とも呼ばれているのです。
有田焼と伊万里焼の誕生の歴史
有田焼も伊万里焼もその名称のもととなっているのはこれらの陶磁器が生産・出荷された地名になります。
当初は現在の佐賀県の伊万里港から生産された陶磁器が出荷されていましたので、佐賀県の有田で作られました陶磁器はすべて伊万里焼と呼ばれていました。
しかし近年では佐賀県の中でも有田で生産されるものを有田焼、伊万里で生産されるものを伊万里焼と呼ぶような形で区別をする場合もありますけれども、一般的には全国ではこの佐賀県の陶磁器は有田焼の名で親しまれています。
この有田焼が日本で生産されるようになるきっかけは、豊臣秀吉が日本の政権を握っていたころに行われました朝鮮出兵でした。
文禄の役、慶長の役と2度にわたる朝鮮への出兵は結果的には豊臣家の短命の原因を作る政策となってしまいます。
しかし、佐賀県においては、有田を治めていました鍋島直茂が朝鮮出兵の際に現地の陶磁器の職人たちを捕虜として日本に連れてきたところから有田焼の歴史は始まるきっかけとなるのです。
鍋島直茂によって始められた有田での陶磁器生産はその後さまざまに技術の改良が進められていきまして、やがて江戸時代を迎えますと、佐賀の肥前藩を救う品となっていきます。
江戸時代においては多くの藩主たちが自分の藩の経営に苦慮していました。
幕府においても享保の改革や寛政の改革などに代表されるような財政再建が大きく取り組まれていきますが、各藩においても貨幣経済が浸透した社会の中で、財政難にあえぐ藩は多くあり、それを打開するための経済改革が必要とされていました。
有田のありました佐賀の肥前藩も財政再建を必要としていた藩の1つであり、この財政難を解消するために注目されたものが有田焼です。
鍋島直正によって専売がなされるようになり、藩の財政再建に利用されるようになったのです。
この過程の中で積極的な宣伝活動によって知名度も高まり、日本の代表する陶磁器としての地位を確立していったのでした。
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